旭陽中学校同窓会 第6回カルチャースクール 
京街道と京阪電車の旧軌道探索2017.6.17
 2018年6月3日旭陽中学校同窓会主催の第6回カルチャースクールが開催されました。
今回は前回好評だった京街道と京阪電車の旧路軌道の面影と旭区のいにしえについて探索してきました。
なお、今回もご案内は広報担当の宮田がさせて頂きます。

集合地点は我が母校 旭陽中学校正門前。

今回の参加者は、石川会長、清水副会長、浦西副会長、青野副会長、堀さん、竹内さん、近田さん、都甲さん、そして私宮田とガイドの寺坂さんの10名。

今回は旭陽中学校から千林商店街等を経由して最終地点の大宮小学校までおよそ7キロのコース
昨年と一部内容は被っていますが、今回はさらに掘り下げます。

昨年の7キロ歩きコースは、音を上げる人も続出。今回は移動手段を自転車としました。

ガイドの寺坂さんは当年65歳の旭区ボランティアガイドの会員。年齢に関わらず至って健脚。
さて、皆さんは最後までついてこれるでしょうか?

当日は城北公園フェア2018が開催されており打上は、城北公園で地ビールを飲もう!ってことになってます。
あ~楽しみ!

 【三興市場跡】
まず初めに向かったのは、高殿3丁目の市場跡。

昭和30年代高殿3丁目の安養寺の西側に、三興市場と呼ばれる市場がありました
市場には、酒屋、すし屋、お好み焼き屋、薬局、カメラ店、布団店、呉服店、文具店などがはいっていました。
ここの酒屋、55年前の地図で確認すると「青野」とあります。同窓会副会長の青野さん家の酒屋さんだったんですね。

市場ができるとお店も集まります。周りには中宮映劇(映画館)や電気屋、本屋、靴屋、パン屋さんなど、いろいろなお店が軒を連ねていました。
近くにはお風呂屋さん(すみれ温泉 後の湯の花温泉)もありました。

今はもう面影は無いけれど、閉ざされたシャッターが時代の移り変わりを表していますね。
昭和39年の住宅地図に
三興市場の文字がありました
わりと最近まで八百屋さんをされていた
イメージがあります
この並びには電気屋さん、薬局、タバコやさんが
ありました
 

【戦争の傷跡】

三興市場の近くに祠があります。 
祠の由来を寺坂さんにきいてみました。

昭和20年6月7日 大阪城にあった大阪砲兵工廠(軍事工場)を目標に、大量の爆撃機B29が大阪に襲いかかりました。
後に言う第三回大阪大空襲です。
その時は旭区も爆撃をうけています。

この祠は、このあたりで戦火に巻き込まれ お亡くなりになった多くの方々の魂が、安らかに眠れることを祈り、作られたそうです。
 

 
【旭区のランドマーク】ガスタンク

昭和前半から中期に渡り、旭区高殿のランドマークと言えば「ガスタンク」だったのではないでしょうか。

はるか遠くからでもわかる独特な建造物。

ガスの保有量により高くなったり低くなったりするガスタンクは、生きているようでもあり子供心に不思議な建造物でした。

昭和50年頃までは、都市ガスとして石炭ガスが利用されていました。 
その後、環境にやさしく、エネルギー効率の良い天然ガスへの切り替えが始まりガスタンクも役割を終了。
今は、スーパーがその跡地に立っています。
旭区にあったガスタンクと同系のガスタンクの写真

こちらは昭和17年(1942年)の航空写真です。

高殿小学校の南にあるのがガスタンク。
影の長さからもタンクの背の高さがわかるでしょ。

でもこのころの高殿エリアは本当に何もない状態だったんですね。



【豆知識】
このガスタンクの正しい名前は有水式ガスホルダー。
有水式ガスホルダーは、中に水が入っていてその上に上下にスライドする大きなカップ(ガス槽)が載っています。
ガスの出入りでガス槽が上がったり下がったりしています。
低圧ガスの貯蔵設備として今も各地で使用されているようです。
 

【関目の七曲りと関目の由来】

ガスタンクの後 訪れたのは、関目の七曲りです。
昨年もご紹介しましたが、おさらいもかねてもう一度ご説明します。

この道は、京都へ向かう街道(京街道)です。

豊臣秀吉は、街道をくねくねと曲げることで敵軍が攻めてきたときに、一気に攻め難いようにするとともに俯瞰して、敵軍の兵力等を見極めたといいます。

また関目には、街道を行き来する人々を目視で厳しく監視する関所がありました。
「目視で行う関所」(目で見る関所)から関目と名付けられたそうです。

太閤さんはこのあたりを守りの要としていたのでしょうか。

ここで、副会長の浦西さんから、「本当に7つ曲がってんのかいな?」との発言が・・・
地図でみると角度的には微妙。
まぁ語呂としては7曲がりが一番よろしのではないかと思いますが、あまりそれ以上突っ込まないで下さい。
  
 

 
  【大宮神社の一の鳥居】

大宮神社は、 文治元年2月(1185年)に源義経が、神の夢を見たあと平家を打ち滅ぼすことができたとして後鳥羽天皇の許可を得てその場所に社を立てたのが由緒となっています。(とってもザックリな説明ですいません)

その後、豊臣秀吉が大阪城築城にあたり大宮神社が、大阪城の鬼門にあたるとして「鬼門守護神」として崇め、神殿等の整備が行われました。当時の神殿の広さは3ヘクタールと広壮な社となっていたそうです。

その時代には京街道の七曲りに一の鳥居を設置。
今の高殿小学校の前を通り、大宮神社へ続く大宮通とよばれる参道は松並木が続いていたようです。
京都へ旅立つ人が、旅の安全を祈願し、大宮神社へ参っていたのでしょうか。  
 ここ七曲りには昨年(2017年)、区役所が一の鳥居を解説する立て札を立てています。

一度ご確認下さい。 
 

 
【明治天皇 聖の碑】
明治元年に明治天皇が大阪に来られた際に関目高殿交叉点近くでご休憩をされました。

そこには「明治天皇天皇聖躅(せいちょく)」の碑があります。
でも、目立たない場所の為か、気付く人も少なげです。
しかも、去年は傾いて今にも倒れそうになっていました。
それが!今年はまっすぐに!

なぜか ほっとしました。

なぜ明治天皇が大阪にこられたかは、昨年のカルチャースクールをご確認下さい。
 
 昨年(2017年)の聖躅の碑
左に大きく傾いていました これはアカン
⇒  今年(2018年)の聖躅の碑
まっすぐになってる!よかったぁ
 

  【ブレイクタイム!】
このあたりで前半終了
そこで、今まで見てきたところを地図でおさらい。

オレンジの枠内が回ってきたところです。

大宮エリアは昔から比較的人家が多かったものの
昭和初期まで高殿エリアの大半は田畑だったようです。

高殿が地名になったのは1971年。それまでは生江町、中宮町、大宮西町、大宮町など、大宮エリアから南北に長く続いた町名となっていました。

高殿は準工業地域も多くあり中小の工場も沢山ありましたが 今は大半がマンションに姿を変えてしまいました。

これからも町はどんどん姿を変えて行くのでしょうね。
まだまだ、前半です。
皆さんついてこれてますか?
 

さて、次は京阪電車の蒲生~守口間の軌道変更のお話です。 とその前に・・・ 
 【京阪電車はチンチン電車?】

明治43年 八幡駅に停車中の1形車両。 
このころは一両編成です。
京阪電車は明治43年に天満橋~五条間の運行を開始しています。
でもそれは、「鉄道」として開通していたのではなかったのです。
では、何かというと軌道条例に基づいた「軌道」だったということです。
さて「鉄道」と「軌道」の違いは?
簡単に言うと電車専用道のみを走るのが、「鉄道」。
それに対して、道路上を走る電車。いわゆる路面電車を「軌道」と言います。
ええ~!!路面電車って それ チンチン電車やん!!!
でもそれには京阪電鉄の思惑があったようです。

路線認可を得るには、既に開通していた官線(現JR東海道線)を脅かす存在となってはいけなかったからなのです。
京都⇔大阪間を開通させるには「鉄道」よりハードルの低い「軌道」で申請することにより旧国鉄にライバル視されずに認可がでたそうです。

「軌道」といっても、実際は大半が電車専用道となっていました。
路線承認を得るためと開設費用を抑制するための苦肉の策だったのですね。

続きましては、蒲生~守口付近の新旧路線をについてです。

第一次世界大戦終戦(大正7年)後、日本の工業化とともに、大阪の人口は急増します。 
大正9年に125万人だったのが10年後の昭和5年には245万人と約2倍増となっています。

それに合わせ京阪電車の需要も急増。多くの人を運ぶには効率化(高速化)が最大のテーマとなります。

下の地図でも分かるように、旧軌道は曲線が多く、減速を余儀なくさせられる区間となっていました。

蒲生~守口エリアも、今後さらなる人口の増加が見込まれていたため、変更するなら今しかない! として昭和6年に現在の路線へ切替えを断行したのです。
でもそれは、今から約90年も前の出来事です。
以前の路線を記憶している方はもうほとんどいらっしゃらないかもしれませんね。 
 

  でも、街中をよぉく見ると今でもその軌道跡が見えてきます。
 まずは、ふたつの地図を見比べて下さい。

 左は大正13年の旭区を通る京阪電車の旧軌道です。
七曲りのすぐ横を通り千林商店街を突っ切って土居駅まで走っています。
このエリアは特に曲線が多く、速度も出せなくなっていました。 
   昭和6年には現在の路線に切り替わりました。 
(青色が新軌道)曲線は解消。
まっすぐ!さらに高架になりスピードも出せるようになりました。 
   

 
【旧軌道の確認】 
千林商店街あたりの現在の地図に旧軌道を重ねてみました(赤線)
さらに青い枠内を航空写真に切り替えると・・・・

赤線が旧軌道です。
 家並みが旧軌道跡を今も彷彿させてくれます。



商店街の足元の碑 見たことありますか? 
意外と気づかないんですよ。コレ
 
 千林商店街と旧軌道の交わる所に「千林商店街発祥の地」の碑が埋め込まれています。

当時の駅名は「森小路停留所」
「駅」では無く「停留所」となっているのが「鉄道」ではなく「軌道」(路面電車)であったことの証にもなります。

でも、ここに停留所が出来たところから、多くの人が集まる場所になりました。
まさに、今の千林商店街の発祥は「森小路停留所」にあったと言えるでしょう。

 さて次は、気になる旭区と守口市の境界線のお話です。

【旭区と守口市の境界線】


 旭区のお隣は守口市。
旭区に住んでる人なら小学生でも知ってますよね。

普通、区や市の境界線は、道路や川などで区切られてるものですが、旭区と守口市の北東の辺りは、どうも気になります。
左の赤線が境界線ですが、どうやら道や川も無いところにかかっているように見えます。
しかもいびつに・・・

青い枠内を拡大すると・・・ かなりカクカクと住宅ブロックを縫って境界線が走っています。

この辺りを歩くと町名ブロックが旭区と守口市が激しく入れ替わります。
旭区と思えばお隣は守口市だったりね。


実はこの赤い実線で表した境界線は、 淀川の大改修が関係しています。

 改修前の淀川 上の地図と比べると大きく湾曲していたのが分かりますね
 
明治18年6月、幾つもの低気圧が近畿地方を襲いました。
枚方で淀川左岸の堤防が決壊したのをはじめ、淀川水系のいたるところの堤防が決壊。大阪は大阪城と上町台地の一部を残し大部分が浸水してしまったようです。
当時の淀川は守口辺りの地図でも分かるように大きく蛇行が続き、毛馬辺りで左にさらに曲がり今の大川(旧淀川)へと続いていました。

この明治大洪水を受け、抜本的な淀川の改修工事が行われることとなります。
川の蛇行を修正するとともに、毛馬辺りから直線で大阪湾へ注ぎこむ新淀川が造られました。(明治43年完成)
この改修により旭区と守口市近くの淀川も大きく北側へ寄せられた形になっています。

改修により地形がかわっても守口市の境界線だけが改修前の淀川跡に取り残された形となってしまい今の気になる境界線となったのです。 

 


そろそろ みなさんお疲れのようです

一行は今市商店街を通過し 
いよいよ最終目的地へ
 

最終目的地は、淀川に大きな橋がなかった時代。 
人々を対岸へ運ぶ手段として活躍していた渡し船の跡地となります。

【平太の渡しは道路だった!?】
開通間近の豊里大橋と平太の渡し船 
淀川に大きな橋が無かった時代、渡し船が唯一の川越えの手段でした。
豊里大橋ができる大昔。江戸時代に御上の許可を得た渡し船の運行が始まります。それが平太の渡しです。
平太の渡しは運行以来、多くの人々に利用されてきました。
明治40年からは府営の交通手段となります。船代金は大人2銭(今の価格で約100円)だったそうです。
大正8年には道路法が適用され「東淀川区386号」となります。道路と同じ扱いだったんですね。
昭和35年に発動機船が導入されるなどして最盛期には一日約3千人の乗客を運んでいたといいます。
しかし、昭和45年の豊里大橋開通にともない、その役割も終了してしまいました。

改修された淀川河川敷は
公園やグランドに転用されています・ 

さて いよいよゴールです 

ゴールは大阪市立大宮小学校前 

お疲れ様でした!

小学校の塀には淀川河川改修についての記載がありました。
自分達がたっているこの場所は改修前の淀川の堤防跡だそうです。

今市交叉点の東側に立つと地面が少し高くなっているのが確認できますよ。
   
 本日後半の経路です。 今日もお疲れさまでした。

お天気にも恵まれ、気持ちのいい達成感に包まれました。

今回ホームページにアップしたのは実はホンの一部です。
歴史書に残らないことも入れると、小ネタは沢山。

京街道以外の旭区を通過する幾つもの街道の話や、消えていった映画館やお風呂屋さんの話。
旭グラウンドが高射砲基地だった話。
城東区に分かれる前の旭区関目に大阪大国技館があり大相撲巡業が行われていた話など、など・・・

さて次回のカルチャースクールは何をするのでしょうか。
もし、ご興味があれば皆さんのご参加お待ちしております。

それでは、恒例の打上げといきましょうか!
お疲れさまでした~!!
 打上げの一次会は大宮の
くるくる回るお寿司屋さんです。
 
二次会は同日開催されていた
「城北公園フェア2018」で地ビールを味わいました。
  
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