旭陽中学校同窓会 第5回カルチャースクール 
京街道歴史探索2017.6.17
 2017年6月17日旭陽中学校同窓会主催のカルチャースクールが開催されました。
今回は我らの旭区を縦断する京街道と京阪電車の旧路軌道の面影を京阪京橋駅から守口駅まで辿ってみました
尚、ご案内は、歴史探索よりもその後のビールが楽しみな宮田(広報担当)がさせて頂きます。

集合地点は京阪京橋駅とJR京橋駅をつなぐコンコース。
京橋の待合場所といえばここでしょう。

今回の参加者は、石川会長、清水副会長、堀さん、竹内さん、都甲さん、川崎さん、そして私宮田と今回の水先案内人寺坂さんの8名。

今回は京橋から守口までおよそ7キロの距離を歩きます

寺坂さんは旭区ボランティアガイドの会員をされていて、旭区のことならなんでもご承知!楽しみです。

この日は晴れ 最高気温は27度 湿度も低めでちょうどいい天気。だけど平均年齢は60代?!
守口までの7キロ歩き通せるのでしょうか? ウーンあやしいなあ~

はてさて、守口まで辿りつけるのでしょうか…

京阪京橋駅は、近畿の駅百選にも選ばれた 京阪電鉄の旗艦駅。

近畿の駅百選にも選ばれています。

自分はホームで販売されているフランクフルトが大好物。
一日多いときには1000本売れるというから驚き。
ケチャップをつけなくても良いように、味付けはしっかり

次の列車がくるまでに、ホームで缶ビール片手にフランクフルトを頬張るサラリーマンも、ここでは全く違和感なし! いい駅だあ。
 
   さて京街道のお話に戻ります。

豊臣秀吉が大阪城と伏見桃山城を最短距離で結ぶ道として文禄5年に淀川左岸に「文禄堤」を作ったのが始まりとされています。

その後 徳川の時代になり、始発点が京橋口から高麗橋に変わり東海道53次に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場を加え東海道57次として人々を受入れ続ける街道となります。
   京橋の駅近くにある道標

書かれている文字は

右(東方面)大和(奈良)
左(北方面)京みち


と書かれています

道標には「文政」の文字もあります
文政は1818年~1830年
徳川将軍で言えば徳川家斉の時代にあたります。

約300年間 沢山の人々を案内し続けていたのでしょう。

  国道一号線を渡ると京街道沿いに京橋中央商店街の入り口があります。

入り口の上には「BIGIN KYOUBASHI」の文字とローマの休日で有名な「真実の口」が待っています

なんでBIGINなん?

寺坂さん曰く「京街道の始まりを意味している」とのこと。

それでなんで「真実の口」のオブジェなん?

後で調べると真実の口の下の茂みの中に解説文がありました
「京橋中央商店街は嘘偽りのないまっすぐな商店街ですよ」ということを意味しているそうな
 商店街をのんびり歩く参加者の図

商店街の途中で京街道の碑が
ありました 
商店街を横断する散歩道

ここは昭和57年に廃線となった旧国鉄淀川連絡線跡です。

昔は商店街の中に踏切があったのでしょうね。
商店街を超えるとしばらく味のある街並みが続きます 
さらに行くと榎並地蔵が見えてきます
 
祠のなかには金箔で彩られた仏像様がいます。
直接見れるのは年に一度の地蔵盆の時だけだそうです。
 
 地下鉄「野江内代」駅まで歩いてきました。

京街道には秀吉の戦術が隠されています。それは「七曲り」です。
街道をくねくねと湾曲させることで直線で一気に攻め込むことができなくなるようにするとともに俯瞰して、相手の動きを読み取ることができるのです。 

うーん たしかにくねくねしてるわなぁ
「野江の七曲り」 

「関目の七曲り」  
ちなみに、昔このあたりに関所があったそうです。
関所では、不審者がいないか目視によるチェックをしていたそうです。
「目で見る関所」そこから関目になったそうです。
   その昔、関目の七曲り当たりに大宮神社の参道の起点を表す一の鳥居があったってご存知ですか?

参道の長さは12町(約1.3㎞)幅六尺(約1.8m)で「大宮道」と呼ばれ松並木が続いていたそうです。

参道の途中に神社の高い建物(小高いところに建った建物の説もあり)がありました。立派な建物のことを「殿」(宮殿の殿)といいます。そう、「高い」「立派な建物!殿」すなわち「高殿」です。
高殿小学校の名前は、このあたりに「高殿」があったとして付けられました。

1971年には「高殿」がこのエリアの正式地名となってます。
 
京街道にはあちらこちらに道標が設置されています   大宮神社の古地図  七曲りも分かるでしょ!
  関目の七曲りでしばし休憩 
 次は大阪が、首都になっていたかも!?ってお話です。
明治元年に関目あたりに明治天皇が来られていました。
(目的地は天保山!関目は単に小休止されただけ!の場所だけど・・・)

その証拠に 関目高殿駅近くに
「明治天皇天皇聖躅(せいちょく)」の碑があります

聖躅(せいちょく)とは天皇が各地を行幸した際に立ち寄った所を意味します

このあたりにあった西井茶屋で小休止されたそうです。

そこには西井茶屋の跡影は全く無く、碑も建物の間にひっそりと立っています。

しかも、傾いて・・・ (誰かまっすぐにして~)

明治天皇が大阪に来られたのは、大阪の天保山沖で新政府軍の軍艦訓練を観るためとなっていますが実は、少し裏があったようです。

大久保利通は古いしきたりで縛られた公家の多い京都を都とせず、大阪へ遷都することを提案していたのです。
でも、案の定 公家達からは猛反対。
そこで、大久保利通はまず天皇を大阪に長期間滞在して頂くことで大阪で天皇が政(まつりごと)をしたという既成事実を作ろうとしたようです。

しかし、その目論見も前島密が提出した「江戸遷都案」に打ち負かされてしまい、江戸は「東の京都」として「東京」となったのです。

もし、大久保利通の大阪遷都案が通っていたら、大阪が日本の首都になっていたかも!
でも、その場合、大阪は「南の京都」で「南京」って地名になってたかも!!! それはヤダ・・・
 「大阪行幸諸藩軍艦御覧」(岡田三郎助画)
 一行は関目高殿の5差路の交差点までやってきました

交差点から喫茶壱番館横に入っていく道が京街道です
 古市橋を渡って城北川一級河川(旧城北運河)を渡ります 【城北川】(一級河川)
城北川は昭和15年に運河として作られ、川岸には多くの工場が立ち並んでいました。
でも、工場や、家庭の生活廃水で水質は悪化。
昭和30年にはメタンガスが底から湧き出てくる最悪の状態となっていました。
今は、水門を開け閉めすることにより水質の良い大川の水を流し込むなどし、水質は大幅に改善。
魚も釣れますよ。
 
さて、お勉強です。
そんなに大きな川でもないのに一級河川とはなんで? 
一級河川は国土保全、国民経済上重要な河川で国土交通省が指定した河川をいいます。
また一級河川の支流はすべて一級河川になります。
城北川は大川(一級河川)の支流!
だからなのか~
 そろそろ、歩き疲れてきました・・・ 会長からは「カドヤで休憩しよ カドヤで・・・」のお言葉が・・・
寺坂さんは「守口まではまだまだあるよ。ここで休憩は早い!」と一蹴。 ん?カドヤって何件かあるけどどういう関係なんでしょうね。ちと気になります。
 ググってみるとカドヤのルーツは赤川1丁目の「赤一かどや」(旭区赤川1丁目)が創業店。

その後、親戚への暖簾分けで「角屋」(森小路2丁目)、「カドヤ東店」(森小路1丁目)、「赤三かどや」(赤川3丁目)、「淀川カドヤ」(淀川区東三国1丁目)と増えていったそうですよ。

フランチャイズではなく暖簾分けなので、みんな独立したお店。

だからメニューもお店によってイロイロ!

どこが美味しいか、食べ比べしてみて下さい。
こちらはおなじみ商店街近くの角屋
 こちらもおなじみ「カドヤ東店」
 旭区の井路川(いじがわ)
井路川って聞いたことありますか?

江戸時代以降、水路や運搬の為に井路川という水路が彫られていました。

旭区内でも左記の通り水路でいっぱい。
このあたりの井路川は、淀川水系にあたり水質もよく、蛍もとんでいたそうです。

大宮神社にある小さな橋 それも旧井路川をわたる橋だったようです。

千林界隈にのこる塀元が石垣に囲まれたお屋敷も井路川に面していた跡のようですよ。
 
井路川イメージ
水路以外にも洗濯や近くの農家の方が
肥料として肥汲みにもやってきたそうです
 

  千林商店街の少し外れにとっても有名な長屋があります。
その名も「九軒長屋」

戦火を逃れて、保存状態もとっても良し。
こちらの長屋は昭和12年に建てられた大正時代の長屋の特徴を残した建築物。
九軒の軒(のき)が連なる姿はとってもレトロ。

この前を通るだけでノスタルジックな気持ちになれるのはなぜでしょう?
 

 京街道の散策もいよいよ終盤です。

京街道の元となった文禄堤にやってまいりました。

場所は守口駅近く。

このあたりは堤の上。なので回りより少し高くなっています。

街並みもまた趣があってとっても良し。
 
 
 
 ゴールは難宗寺。
明治天皇が大阪に来られた時にお泊りになられたお寺です。
静寂のなか木漏れ日と涼し気な風がとっても気持ちいい!
 
達成感と心地いい疲労感でみんなしばし呆然・・・
 
石碑には「明治大帝聖跡」の文字が刻まれています
明治天皇がお泊りになられた証
 
   
 さあて。反省会と称する飲み会のはじまりです。  守口駅近くに 
とってもよさげなお店を見つけました。
お疲れ様です!
思ったとおり単なる飲み会となりました。
 

 この次は、今回のもう一つの目的。京阪電車の旧軌道めぐりです。

京阪電鉄は昭和40年台に京橋周辺の軌道を変更しています。意外なところにその痕跡がありました。
さあ ご一緒に少しだけタイムスリップしましょうか!
巨額の費用をかけて変更した路線。路線変更には理由がありました。 そこには昭和経済高度成長時代の背景が見えてきます。

 赤線が京阪電車の旧路線です。千林商店街も突っ切ってたんですね。


☆京阪電車が巨額な費用をかけてまで路線を変えた理由とは?

戦後、急ピッチで経済が復興していた中、京阪電車を取巻く環境も、大きく変わっていきました。
拡大する大阪の人口に伴い京阪電鉄の利用者も急増。
当時、路面を走っていた京阪電車の片町あたりの踏切は一日合計で7時間ほど閉った状態だったと言います。まさしく開かずの踏切!
それと同時にに自動車の普及率も急増。
京阪電車を高架にし踏切をなくすことが喫緊の課題となっていました。
昭和43年に着工され第一期工事が44年、第二期工事が45年に完了しようやく京阪電車の高架化が実現されました。
これでようやく渋滞解消 軌道跡は商店街や住宅地に変換されています。

※蒲生あたりから守口駅まではすでに昭和6年に高架化されています。この時代 これもとっても画期的なことなんですと!

 京橋でJR環状線の下を通る道。ここは旧京阪電車の軌道跡なんです。  高架内にこんなの見つけちゃいました。
旧国鉄と京阪電車が交わってた証拠ですよね。プレートには
「京阪電鉄交叉橋」の文字がはっきりと書かれています
 
昔の写真と比べるとホラ

間違いないでしょ
あんな狭いところでも複線だったんですね

♪「京橋は ええとこだっせ グランシャトーが おまっせ」♪

  高架を抜けると京橋エリアを有名にしたあのグランシャトーを横にして今の商店街を、旧軌道は突っ走っていきます。


  グランシャトーを抜けたあと商店街が続きます。
ここも旧京阪軌道跡。

アーケードの曲がり具合が
当時の軌道を彷彿させてくれます。 
 
 ちなみに現在(2017年)の夜 このあたりの呼び込みはすごい!

あちらこちらから「飲み屋いかがですか?」の黄色い声が飛び交います。
中にはお好み焼屋や餃子屋さんまで店先で呼び込みをしていますよ。

大阪やなあ・・・
          
京阪旧軌道を確認できるものがここにも!

ここは昔旭東市場を中心に栄えていた商店街。
商店街の近くにポツンと公衆トイレがあります。

これは、京阪旧野江停留所にあったトイレだそうです。

線路はなくなっても地元の方たちの為にトイレだけ残してくれたそうです。
知らなかったあ。
近くの飲み屋を利用させていただいた時、利用させて頂いておりました。
 
   こちらは京阪旧森小路停留所跡です。
千林商店街の床に埋め込まれています。

タイトルは「千林商店街発祥の地」とされています。

そもそも千林当たりは昔から集落が集まるエリアで野崎街道が横断する場所
1910年に人の集まる場所に森小路停留所が出来、その周りにさらに集まってきた商店が今の千林商店街になったということです。
 
 
 森小路駅近くの本屋さんその横の道も京阪電車の旧軌道あとです。

 地図で見ると良くわかるでしょ。赤い線が旧軌道
建物が、きれいにその軌道跡に沿って建てられているのがわかますか? 

 
はい最後は、滝井駅近くで合流いたします。 

確かに滝井の合流場所近くでみると、
新軌道は向かって右側に
不自然に線路が曲がっているのが 
分かりますよ。

手前の一般道路が旧軌道です
 今はここが旧京阪軌道であったことを知らない人が沢山。
それでも、建物の形などから、線路の跡だったことを読み取りできるところも残っています
これにて2017年のカルチャースクールは終了です。最後までご拝読頂きありがとうございました。
さて来年は何をするのかなぁ~
お疲れ様です!